永代供養とは
what is perpetual memorial ?
永代供養は供養をお寺に依頼します
私が檀家さんへお参りに行った時、
「和尚さん、うちは子供がいませんので、この先どうしたらよいのでしょうか」また、
「息子が東京にマンションを買ってしまったので佐賀には帰ってきそうにありません」あるいは
「うちの息子はもう結婚しないと言っています。何とか言ってやってください」など、
少なからず供養、お墓の問題で頭が痛い家が出てきています。
お寺としても供養を続けてもらわなくては困ります。
もうお寺から供養を取ってしまったら何も残りません。
寺の役目が終わってしまいます。
供養は、続けることによって、感謝する気持ちが養われまた、自分も報われるのです。
その供養を続けたいけれど、何らかの理由があって続けることができない。
それをお寺に依頼するのが永代供養です。
一般的には人の供養は50回忌までとしていますが、地方によって異なっているみたいです。
近年、永代供養塔、永代供養という言葉を耳にするようになったと思います。
テレビや雑誌などで「終活」、「ついの住か」といった特集を目にしたと思います。
各寺院によって永大供養塔、永代供養もシステム内容や代金はさまざまです。
円城寺では永代供養塔(お墓)の代金と永代供養(供養料)とに分けています。
供養方法は、2種類あります。
1つは檀家になって供養を続け頂くか、永代供養料を支払ってお寺に依頼するかのどちらかです。
当寺では、本堂でお参り出来るように永代供養者の位牌堂を設けました。自由にきてお参り出来ます。位牌には表に故人の名前、裏に戒名なくなった年月日、歳を書き込みます。ここでお線香を上げ手を合わすことが出来ます。お彼岸、お盆、正月には、お供物を供え読経をいたします。 また自分でお供え物を持って来られて自由にお供えください。年に一回永代供養者の慰霊祭を取り行います。しかし現在は生前契約者が大半で、まだ永代供養者が少なく故人の祥月命日に合わせて、供養を執り行っています。
供養は続けてこそ価値がある
先の東日本大震災で私達は被災地を目の当たりにして悲しみ、そして力になりたい、何かできることはないかと誰もが思ったはずです。また被災しても秩序を乱さず助け合う姿は、世界の人々から賞賛されました。仏教には「上求善提、下化衆生」と言う言葉があります。これは自ら向上心を持って努力し、困った人があれば救済すると言う意味です。この言葉がピッタリ重なるのです。
我々が持つ日本人の気質は何処に原点があるのだろうと考えた時、私はやはり仏教からだろうと思います。我々の祖先が受け継いできた仏教は、私達のDNAの中に組み込まれているのです。自分では気づかなくても、深層意識の中では息づいています。これを仏性とも言います。
今日では、日本人もすっかり欧米様式を取り入れ何の違和感も感じません。しかし真似はしても欧米人にはなれないのです。そこには宗教の違いがあるからにほかありません。
また、東日本大震災では津波により多くの犠牲者が出ました。ある被災者の方が、「和尚さん、私の夫の遺体がまだ見つかりません。だからお葬式も供養もしてあげられません。」と言ったそうです。
その和尚は、「人には二度の死があると言われました。一度目の死は、私達が言う亡くなる事です。そして二度目の死は、故人供養もせず忘れられてしまった時が、本当の死である」と言われました。慈しむ心があれば、故人は自分の心の中で生き続けるのです。この大慈心がさせるものが供養です。そしてこの供養を形にしたのが、お墓参りであり、法事を営むという行動です。
私の檀家さんでもう三十年、月参りを続けておられる檀家さんがあります。三世代の家族構成ですが、私がお参りに行くとまず、ご主人とお祖母さんが対応してくれます。そして私が鐘をチーンと鳴らすと家族全員が集合します。それから私が配った経本を見て、全員でお経を唱えます。このような家庭の中で育った子供が、愚れるはずがありません。優しい心と感謝の気持ちが養われるのです。今では立派に成人され、結婚式にも招待していただきました。今は仕事で東京住まいですが、帰省した時は必ずお墓参りに来られ、私にもご挨拶をして行かれます。供養を続けると言うことは、こういう事だと思います。
永代供養を問う
そもそも供養とは、自らがお寺に足を運び、手を合わせ故人を忍ぶ。また法事を営み功徳を巡らす事が本来の姿です。
よく問い合わせで、永代供養料はどのくらいですかと尋ねられます。一般的には、故人が亡くなられてから五十回忌までの供養料の事を指すのだと思いますが、一概には言えません。
何十年も檀家として供養していけば、それに費やす経費は決して安価な金額ではないはずです。それを一括で永代供養としてお寺にお願いするのですから多少の金額は覚悟しなければならないと思います。むしろ安価な供養料だと、本来の供養の価値が損なわれ仏事に対する考え方が益々軽薄な物となってしまいます。それでは、寺院側も逆効果で自分の首を絞めかねません。
また、一方では、家族に後継者がいない方にとっては、供養が続けられないということは深刻な問題です。そこに永代供養料が高額だと、供養を頼みたくてもできない方も居られます。本来、永代供養は、供養を続ける救済手段でもあるわけです。寺院側は私利私欲に走らず、これらの事をよく理解して経営すべきです。
そして、これから永代供養や永代供養塔を探しておられる方は、決して安価な料金に迷わされず、自分で足を運び、その寺の環境や供養の内容をしっかり把握した上で見極めて欲しいと思います。